2009年4月2日木曜日

最後の463km

朝9時、Lins をゆっくりサンパウロへ向け出発。 2車線のMarechal Rondao & Castello Brancoはブラジルの余裕とRichさを見せ付けるようだ。 Marginal Pinheirosがとても懐かしい。 取り敢えず、まず何はともあれ安着の姿を社員に見て貰わねばと会社へ向かう。 15時半、42日ぶり社員と再会。 全走行距離は、16,816km。 費用は、助手が集計する事になっているが、いつ計算が終わるか未定。 留守中特に問題もなく、仏壇に安着の報告。 快く送り出してくれた全社員、盛和塾の仲間、情報を提供して下さった大束先輩、野澤さん、早川さん、Chileでの車のRevisaoの手配をして下さったMurataさん、Asuncionの田中さん、Santa Cruzの三浦さん、佐藤さん、先々でホテルの情報や道案内でお世話になった数知れない7カ国の名も知らない親切な人々に心からの感謝で一杯。 頑張って呉れたForesterには愛おしさを感じるとは、助手の弁。 最後に、やはりこれも隠さず記録した方が良い思う。 今、スーパーへ買物へ行った際、前の電柱にForesterをぶつけた。 ゴメン!Forester.

2009年4月1日水曜日

Campo Grande - Lins

BRの平らで肥沃な土地は本当に恵まれ過ぎているのではないかと思うほど。 どこまでも続くこの緑の海原も又素晴らしい景観である。 ChileやPeruの砂漠地帯の人々が見たら圧倒されるに違いない。
昨夜から一杯やりながら、久枝氏の熱っぽい自然農業に賭ける彼の壮大なProjectを聞きながら、誠に心地よい時間を過ごした。 出発前、会社訪問。 空中の窒素を土中に取り込む豆科の草の巨大な在庫を見せて貰う。 かれのProjectの象徴である。  今朝は、彼の農場で取れた、無農薬の野菜、鶏卵、自家製餃子を腹にCampo Grandeを後に。  Lins着19時。 Hotel Cristal.  助手は、もうカメラも手にしていない。

Pantanal縦走

CorumbaでBRでの一夜を明かし、昨夜閉まっていたBolivia側入国事務所と税関に後戻り。 税関に着くなり「今忙しいので30分後に来てくれ」と。 国境の町、Arroyo Concepcionを30分ぶらぶらするも、出国の手続きは終了し、税関での車の出国手続きのみの身の上。 ここでフラフラしていて警官にでも問われるとヤバイと几帳面な性格が頭をもたげ、税関のところで張り付いていた。 しばらくして税関の職員、車の書類に目を通し、車を遠くから確認。 一言OKと。 「今度来るときはスイカを持って来てくれ」と意味不明な言葉を残し事務所に消えた。 当たり前だが、BR通貨Realが自由に使え、ガソリンスタンドがあちこちにあって、人の愛想が抜群に良い、道路標識が確実な情報をくれる、ガソリンを入れても最後は、ちゃんとふたを閉めて呉れる、そんな環境がやたらとうれしい。 40度近いCorumbaからは、Pantanalの縦走。 湿地帯の上をかなりの土盛りした感じの道路をしたすら走る。 途中、牛追いの大群に会う。 Pantanalの上部を目指し移動しているらしい。 道路は、完全ストップ。 糞だらけ。歩きながら良く糞を出せるものといたく感心して見ていた。 一年を通して移動しているらしい。 Campo Grande手前、50-60kmに展開する農場が素晴らしくきれいで、まるでGolf場のよう。 緑が眩い。 盛和塾の仲間、久枝氏に連絡自宅に泊めてもらう。 商売の一部、日本食レストランから取り寄せた寿司、お刺身、川魚のトライラなどで歓待して頂く。  痛飲し、そのままベットへ。 

2009年3月31日火曜日

BR仮入国

いろいろ思案してもルート選定が決定出来ないまま、Puerto Suarezの予定コースを選んで、Snata Cruzを出発した。 やはり気になる雨による道路の中断。 出発後1時間半して雨が降り始める。 余程、遠距離ルートに変更引き返そうと考えたが、続行した。 運良く天気も回復。
しかし、これが国道と思わせるような150km地点。 ぬかるみと水溜り。 一箇所、車を降りてトライするかどうかかなり深刻に考えた地点もあった。 4輪駆動でなければ引き返すところであった。 Tres Cruzes
手前で4回目のパンク。 San Jose de Chiquitosの修理屋行ってホイールも使え無くなるほどのダメージでタイヤも修理不能と。  実はサンパウロ出発前、K氏がタイヤの予備(スペアーの他)の持参をしつこく進められ持参したのだが、常に邪魔と後悔していたものだが、今回ほど彼に感謝せねばならない事はない。 本当に助かったの一言。 しかし、 San Jose de Chiquitoからは、開通したばかりの、素晴らしい舗装道路が完成しており、ほとんど対抗車もない280kmは景色も堪能出来、結局12時間で着いた。 Santa CruzからPueroto Suareszまで、半分以上が素晴らしい舗装道路が完成していること、どうして誰も知らないのか、不思議である。 国境のQuijarroに夜20時半到着。Bolivia 側の入国管理事務所と税関が閉まっており、暗い事務所で若い男が「明日8時に開くので明日来るように」と。 今夜中にBRに渡る思いで走って来た者にとっては、とても冷たい仕打ち。「入管や税関は24時間ではないのか」と当方。 すると、携帯を見ながら応対していたくだんの若者こちらをキッと見据えて「アシタの8時!」と。 こんなど田舎で寝られるかと、直ぐそばのBR側の立派な建物の税関と警察に相談すると、「Corunbaへ行ってよろしい」と。 続いて、「そして、明日ここへ出直してBolivia側の手続きを済ませたら良い」と、何とも頼もしいお達しであらしゃる。 そんな訳で現在仮入国の身でCervaja SkolとPintadoを食し、「やっぱり、ブラジルはエー」と助手。 当方ももちろん納得。  Bolivia最後を飾り無事を祝すかのような大きな虹に出会う。

2009年3月29日日曜日

San Juan移住地

Santa Cruzに来て、久しぶりに半袖で外出可能となる。 助手の頭痛も完治し、また通常の食欲を見せている。 この街は、地図で見る限り、中心の24 de Setptiembre広場を中心に、それをぐるりと取り囲むような形の環状線の道路が何本も描かれていて面白い。 Primero anillo, Segundo anillo,という具合で慣れると我々外国人には大変便利。 迷っても一回りすれば、元に戻る。 空も湿気を帯びた空模様で、案の定、短時間ながら時々雨に会う。  今はもう雨季の終わりなるも、やはりここの人達の話も気候の異変を口にしている。 話に聞いていたSan Juan日本人移住地を訪ねることにした。 日本にいる大学時代の友人が少年期ここで過ごしたとい言うMailを受け取り、彼の友人O氏を訪ねて欲しいと。Monteiro, San Carlos, Santa Feそして、San Juan。 片道約130kmの道路は、昨日とは打って変わってすこぶる良い。 しかし、残念ながら、O氏30年ぐらい前から日本に行ってしまい音信不通。一番近い町、Santa Feは、もちろん昔故現在の様相とは違うであろうが、移住地内にお店などない時代は、言葉も不自由な我が同胞がこの辺を買物で行きかっていた姿を想像すると感無量になる。 近郊には立派な住宅もある。 生憎、日曜のため、移住地の中心街は、閑散としており、話し相手と
なりそうな日本人の姿もなかった。 看板から日本食のレストランが3件ほどある。 明日は、BRに向かうが、今日のこちらの新聞では、通行不能と報じている。 かなり遠隔になるCuiabaに抜けるSan Matiasに向かうしか手がないのか。 予定のPuerto Suarez方面へ運行しているバス会社を訪ね情報を貰いに行った。 そこの切符売りが「問題ない」と。 「しかし、今日の新聞には通行不能と書いてある」と私。 「そんなことない。ウチの今日のバスはもう出た」と彼。 「見ろ。今出て行くバスは、もう一社のバス」とその相棒。 ここから650kmもあり、はたして彼らの言葉を信じて良いのか。 バスの切符を売ってしまえば、もうどうでもイイと考えているのでは。 いずれにせよ、予定のコースPuerto Suarezを選択する。 うまく行って15-16時間、へたをすれば途中一泊。 水、食料などを確保しての出発となる。  後は、神頼み。

2009年3月28日土曜日

アンデスの山々ともお別れ

2500MのCochabambaから400MのSanta Cruzへ。 通常の新道が土砂崩れで不通故、やむなく旧道を走る事にした。 いろいろな人に聞いても情報がマチマチ。 ある人は、8時間と言い、別な人は10時間という。 結局、510kmの旧道を12時間かけて到着。  途中、昼食に40分と給油の他15分ぐらい寝た。 これまで、最悪の条件であった。 舗装は三分の一ぐらいで、後は雨の泥んこ道。初めて 4輪駆動の出番となった。 Amboro国立公園のお膝元で、車窓からの景色は抜群なるも、穴ぼこ、対向車、落石、道路の崩れ、はては、路上にのさばる牛、等に注意を払わねばならず、ゆっくり見てもいられない。Santa Cruz近郊の街の通過は夜となり、街灯なし、無点灯の自転車、歩行者が狭い車道にひしめく。  さらに、狭い車道の路肩に腰を下ろして談笑している若者グループなど、信じられない光景である。 Boliviaの交通は、とにかく神経を使う。 Centro近くのHotel Las Americasに投宿し、ガレージに泥だらけのForesterを入れた。

2009年3月27日金曜日

La Paz - Cochabamba

La Pazは街全体がUpper & Lower Partに分かれているのだが、感覚的に慣れるまで時間要する。 例えば今朝出がけのガソリンの補給。 Centroにはガソリンスタンドがない。15Lの残量で高速道路へ入り、焦った。 Upper La Pazに行き、2件のガソリンスタンドを見つけるもガソリンないと、店員がそっけない。  益々、焦った。3件目でようやく列を成していたスタンド見つける。 Boliviaには、Aditivadoなく、ガソリンは、一種類のみ。 La Pazからは国道1号と4号を走る。 道路は、良好。 全く、問題ない。 4500Mから2500MのCochabambaに降りると、快調。 気温も上がり、半そでOK. 街道筋で気になることあり。 それは、街道の右左に犬が車道横に座っていること。 まるで誰かが1km毎にそれらの犬を配置しているかのような風景である。  平地で家畜などの傍にいれば家畜の番犬かとも思う。 しかし、険しい山間にも高速で走る車両の脇に座ってこちらを見ている。 民家の近くでもないところで、小雨の寒い中、沢山の犬達がこちらを見ているのは、とても哀れだ。  決して群れを作る訳でもなく、等間隔と言っても良いぐらいの距離で孤独に並んでいる。 一応、一匹づつのテリトリーがあるのか知らん。 どうしても、誰かに聞いて帰らないと気が済みそうにない。 1000m下がっただけで体調が違う。 Cochabambaは、La Pazと違い落ち着いた町並みを見せている。 La Pazのようなキチガイ運転手、キチガイ歩行者が少ない。 白人の割合も多い。 車も大体いつもの馬力に戻った。 久しぶりにビールも飲んだ。 やっぱし、低地はラクやー。

最後の国Bolivia

4000M前後の標高というのは、我々平地民族に取ってやはり尋常ならざる環境。 助手が3日間軽い頭痛と一度は吐き気に見舞われた様子。 当方は、頭痛とまでいかないが、ベッドに入ってから中々熟睡出来ない。 ひょっ中覚醒し、色々な夢(国境での車持ち込みの手続き、街道での警官とのやりとりとかクダラナイもの)を見たり、少し息苦しさを感じたり。 そう言えば、最近車の追い越し時、「ウッ、こんなものではなかったはず」と。 つまり、ダッシュの加速がイマイチ。 これも多分に酸素の濃度と関係しているのではと推察される。 Punoを後にBoliviaとの国境を目指す。 この区間は非常に農業に適していると思われる。 見事な作物の栽培地帯が延々Boliviaの国境まで続く。 チチカカ湖がもたらす恵み。 国境は、Desagudero経由とSakani経由がある。 途中、Juliと言う町で会った人が景色が素晴らしいと勧められSakani経由とした。 こちらは、チチカカ湖の狭い部分を渡し舟で車一台づつ運んで貰う。15分ぐらい。 船頭と手伝い計3人が乗船しており、料金900円。Copacapanaと言う街で昼食。ほとんど、チチカカの周囲を回る感じで330km走り、18時過ぎLa Paz到着。 ラッシュ時でこれが大変な混雑。 一言で言うと、車の通り道と人の通り道の区別無し。車の列の間を利用して人が平行して歩いており、さらにその列をクロスするように挑戦する人達もいる。  Limaもひどかったが、ここLa Pazには負けよう。 Centroに中々行き着けず投宿出来たのは、20時。 急斜面に作られたような街で、斜面全体に広がる明かりが、Rioのファべラ、Rossinhaの夜を思い出させる。 La Paz日本人会の建物にあるレストラン「Kenchan」でカツ丼。 胃袋が歓喜していた。 La Paz郊外で残雪を確認。

2009年3月26日木曜日

チチカカ湖に生活の原点を見る

朝6時半、ホテルを出てチチカカ湖のツアーに出掛ける。一日コースで有名な浮上している島Urosと36在る自然の島のひとつTaquile島を訪れた。 面積8600平方キロは、南米第二の大きさ。 標高3810M. 一番長い距離で165km、幅60km。 Bolivia領と2分されている。思っていたよりも、美しい。 昨晩の猛烈な雨も止み、快晴の中素晴らしい湖上であった。 有名な人口の島、Floating Islandへ。この人口の島では、現在330家族、約1500人が住んでいる。 このような島がいくつもある。 トトラという湖面を覆うように自生している葦を2Mも重ねて作る。30-40年毎に作り変えるらしい。 風で流されぬよう、石の錘を湖底に沈めているのだと。 流れ込む5本の河川がこの湖の源泉で、チチカカから流れ出る河川は、1本のみ。 従って、水量はかなり豊富で魚資源も多い。 しかし、何故わざわざ湖上になど家を構え住まねばならぬのか。紀元前5000年前、彼らの原住民アイマラ族が、500年前スペイン人の迫害に会った時、Peru、Boliviaなどの鉱山へ労働力として送られることから一部のIndioが逃れようと湖上の生活を始めたのが起源らしい。  現在の人人は、その子孫と言うことになる。 もう一つの島、Taquileは、2500人ほどの島。段々畑が非常に美しい。  よくもここまでと狭い土地を利用していろいろな耕作物を作り、家畜を飼って自給している。 Punoでは、アイマラ語、ケチュア語、スペイン語が使用されているが、このTaquile島では、Incaのケチュア語が主流で、社会的秩序が長老的システムで見事に保たれているらしい。 島の約束事は、全てこの長老達が司っている。  もちろん選挙などない。 うそをつかない、騙さない、威張らない、の3原則があるという。 段々畑を年寄りが精魂込めて生活のためにキツイ労働を淡々としている風景に我々の生活の原点を見る思いであった。  それにしても、湖面の色、回りの風景、静けさ、家畜の鳴き声、そよかぜ、何故か誰でも詩人にしてしまうような時を過ごした。

2009年3月24日火曜日

Arequipa からPunoへ

今回の旅行の準備の中で、頭に浮かぶ未知なる不安はいろいろあった。 その中でも今日の走行区間は、あまり気の進まない部分と考えていた。 なんと言っても、地図で眺める限り5800M級の山々の間を走ることになるからである。 しかし、またもや取り越し苦労であった。 2300MのArequipaから1500Mぐらい上った所が台形のような形をしており、何と3500-4200Mの超高原地帯を大平原のようにかなりの直線距離で走れたのだ。  一番高いところで4820Mあった。 運転中は感じないが、外に出て写真などのために歩くと若干息が苦しくなるぐらい。 話に聞いていた高山病らしき病状はなし。 車で徐々に這い上がって来た性であろうか。 その台形の中をアルパカやビクーニャ、羊と言った家畜が広々とした高原地帯に放牧されている風景を見ながら330km走る。 途中、Yuraという小さな村で温泉に浸かった。 この温泉は、目に良いのだと。 村人が4つの共同湯船に15人ぐらい。 突然のサムライの登場で、一瞬彼らの和やかな会話が途絶えたのをシッカリと感知。 5分も発たない内にすっかり打ち解ける。  しかし、ぬるい湯であった。 水泳パンツ(メチャデカ)借り賃込み、180円。 この村の温泉に日本人が訪れることは、今世紀は、もうないであろう。 昼食に寄った食堂が El Imperial. 海抜4200Mと行きつけらしいトラックの運ちゃんが教えてくれた。 富士山より500M高いところで取った食事は、絶品のスープ2人前、虹鱒1人前(おおぶりが3尾)を頼んだが珍しく助手が 食べきれず。 コーラ含め合計480円の散財。 Peru人はスープを本当に良く飲む。また彼らの大食いには呆れるばかり。  仕事のようにチャッチャカ、チャッチャカ、口に放り込む。 従って、体系もずんぐり、むっくり。 夢にまで見た、チチカカ湖を前に興奮気味。  明日は、いよいよ湖畔めぐりとなる。

2009年3月23日月曜日

白い街Arequipaの終焉

一夜明けてゆっくりした朝食の後、中央広場に出掛ける。 外国人の観光客が本当に多い。 20年前の記憶を辿るがかなりおぼろげで、はっきりしない。 ただ、街全体、あの真っ白な印象とはかなり違って来ており、排気ガスの性でくすんでいるのが残念。 Sillerという火山石で出来ていると。 当時、レンタカーを借りて郊外へでるも、いとも簡単にCentroを脱出出来た。  今回は、Centroまでかなり走ってようやく行き着く。 ツーリストオフイスを尋ね、徒歩で3時間ぐらい主に教会を中心に見て回る。  教会に入ると、広い内部の中央部分の祭壇はもとより、左右の複数の祭壇に数人の信者がじっと像を見つめたり、頭を垂れて、何分も不動の姿勢を保っている光景を目にする。 仏教であれば、手を合わせたり念仏を唱えたりしているものであるが、中には、明かに仕事の合間に寄ったという風情の中年男が何人もいて、表情から何か悔いているような、反省しているような、誰かに許しを請うているような、そんな後ろ姿を感じるのは信仰心に浅い異教徒のげすの勘ぐりであろうか。  一方、若い女性が一心に祭壇に向かって直視しているのを見ると、何か清楚で、清々しく、あくまで純粋な彼女の心がこちらまで伝わって来るような、こんなヒトを嫁さんにすれば、絶対間違いないのではないか、とさえ思えて来る。  何れにせよ、キリスト様から見れば、いささか不謹慎な話で、これを書きながらもそんな浅はかなことしか感じない自分を深く反省している。 また、Peruの純粋犬、ベリンゴに会った。 オバマ大統領の愛犬でもあるという。

今日で太平洋とお別れ

San Juanから300kmほど海岸に沿って走り、太平洋に別れを。 朝、港に行って見た。夜の10時に出た漁船が帰港し、魚を早速商いしている。 魚がやはり年々少なくなっているのだと。 回りの人々に好奇な目で散々見られた。 少し慣れてくると皆から質問の砲火。 気さくな連中ばかりだ。 朝ごはんの芋を貰う。 芋の本場だけに、これがうまい。 San JuanのHotel Imperialは、一泊1800円で朝食なし。丁度いい按配であった。 海岸線を離れる少し前、Tanakaという村を見つけた。 好奇心に勝てなくPanamericana街道を少し離れ、海辺の一軒を尋ねる。 Tanakaの名前の由来をどうしても知りたかった。 夏場の観光シーズンに部屋を貸しているという青年が一人で新聞を読んでいた。 旅の者だがTanakaの由来を教えてくれと。 親切な青年曰く、「昔々、この海岸に一人の軍人が溺れ死んでこの浜に流れ着いた。 彼の首飾りにTanakaと名前が書かれていた。 それからこの浜をTanakaと呼び始めたらしい」と。 もう少し、平和な由来を期待していたが、まあ一応納得して又ハンドルを握り始めた。 海岸線から更に290km内陸に向かい20年前家族4人に来たことのあるArequipaに着く。 Peruで2番目の都市とガイドにあるが本当か。 白い都市と言われる通り、街全体が白い石で作られ、これまでの街より更に歴史の深さが感じられる。 大体どんな街にもPlaza de Armasと言う中央広場があり、ここがCentroということになる。 街へ着くとひとまずCentro. それからホテルの情報をTaxistaから収集する。 こうしてホテルを探す内、大体の街の感じを掴むことが出来る。 従って、決して焦らず、ゆっくり探す事にしている。 

2009年3月21日土曜日

Peru警察のこと

Limaを朝離れ南下開始。 基幹道路専門の警察がいたるところで
検問しており、当方もPeruだけで恐らく10回以上は、止められている。今では、ほとんど彼らとのやり取りが旅の楽しみの一部となってしまった。 当方の意に反し、一年間の車両保険に加入させれれてからは、さらにこちらの応対にも余裕が出て来たため、尚更強気。 保険に入ってからというもの、誰もその件を取り沙汰してくれないのが淋しい。 Limaの出掛けに、後部についていたパトカーから停止を求められた。一見中堅といった警官で「Peruでは外部から見えない色のガラスの使用は、特別な許可がいる。 その許可証を見せろ」と。 当方、そのような認識なく国境でもPeru側の人から何も指摘なかったし、まず、国境で説明すべき、と。 相手側も譲る気配見せず、車没収となるがどうする、と聞かれる。 当方、開き直って、「どうするも、こうするも(こんな風にスペイン語で表現できたか?)Peruの法律に従うしかないだろう」と。 朝のラッシュ時、彼らがこの車をどうやって持って行こうと言うのか。 意外なJapponesの開き直りに、多少のお小遣いをせびって無罪放免を考えていたであろうLima警察のお二人、イマイマしそうに舌打ちして、行ってよろしい、と全てのDucumentsを返して呉れた。 権威主義的なところあるが、しかし、中にはまじな人も勿論いる。 料金所には、必ず検問の警官が数人張り付いている。 今夜は、ナスカを通り過ぎ、名も知らぬSan Juanという街に着いた。 ただ地図を眺めて指差しただけの理由。  意に反し、地の果てのような場所。 風がむちゃくちゃ強く、砂嵐の中着いた。 近づく街を遠くから眺め、来るんじゃなかったと。 助手からまた一言余計な事を言われそう。

砂漠の顔

Limaに戻って来た。 Lima以北は比較的直線的な道路の連続で非常に運転が楽。 その分、砂漠の景色を堪能する余裕が出る。 良く観察すると、砂漠ににもいろいろな顔がある。 向こうに見える一面の砂地でも色が微妙に変化している。 それが山全体をいろいろなトーンの砂地でカバーしている。しかも、こちらがハイスピードで動いているため、その変化する風景に息を呑む場面もある。 いちいち車を止めて、しっかりした写真撮りたいが、いざとなるとめんどくさい。 助手はといえば、猫みたいに一日中寝ているのであまり期待できない。 結論的に、かなりの長時間砂漠の風景に接していても、全く飽きが来ない。 途中の小さな海岸沿いの村、Huarmeyで昼食。Peruは結構スープを好んで飲む。 味付けは全体にうす味。 第一、塩があまりテーブルにない。  塩を頼むと、ボーイが小皿に入れて適量をスプーンをつけて持ってくる。  従って、時間も掛かる。 野菜サラダを頼んでは、塩を別途頼む。 スープは、どれを頼んでも美味しくボリュームたっぷり。 夜はこのホテルNew Corpac Hotelが経営する富士へ。 久しぶりの刺身定食にてんぷら定食。 ヤッパリ味噌汁が薄味。 ちょっと、物足りない。 しかし、大満足。 4800円。

2009年3月19日木曜日

Chimbote & Manco Inca

Peruに戻って来て二日目。Piuraからチンボテ着。 あそこは治安良くないと色々な人から聞いた。 しかし、時間的に宿泊地はここしか適当な町はない。 途中の検問でも警官から「ホテルは警察署の近くにするように」とのお達し。 確かに男の目つきが何となく皆鋭い。 特にタクシーの運ちゃんが推薦するChimbote一番のホテルCantonのManagerらしき男が一番悪そうな感じ。 名前の通り、オーナーは中国人。 また、砂漠のような土地を600kmぐらい走った。 途中今回3回目のパンク。 これで、Chile, Equador,Peruとそれぞれ一回づつ。 しかし、それ以外は、実に快適。 自転車やリアカーを引いて世界を回っている人達に比べ、当方エアコンの効いた車内で、クンビアの軽快な音楽を聴き、助手が思い出したように給餌してくれる酢昆布を口に、右足をペダルに乗っけているだけでSao PauloからGuayaquilまで行って、強烈な腹下しまでしてしまった。 これが天国でなくて何だ。 もう帰るの止めようかナ。 Chimboteには、膨大な数の漁船が停泊している。  今夜は、思いっきり新鮮なCeviche をと腹の調子を回復した助手と四股を踏んでレストランへ行くと、魚介類ないと。肉ならあると。 納得行かず、栓を抜いたビールにも手をつけず出た。 その向かいのレストランの名前が何と El Ceviche。 念のためCervicheは、あるだろうな、と聞くと客の誰もいない手持ちぶたさのボーイが、魚ないと。 結局ホテル内の中華。  聞くと、今は漁期じゃない、とケラケラ笑っていた。 今いち納得行かない。 納得いかない事、もう一つ。 街でNo.1のホテルなら、寝室とトイレの仕切りドアーの上30cmばかり開いておるが、あれは、どのような意味があるのか。 お陰で、中にいる助手の一挙一動が手に取る以上に判る。 それからこの街の途中にあった村の名前がManco Inca。  それでは、チンボテにて、お休みなさい。

2009年3月18日水曜日

Peruへ再入国

Vilcabambaのホテルは、Tierra Madreと言う原始林のど真ん中にあ  るSpaを兼ねたもの。 その性か、内部の装飾もこれ以上置けないぐらいのItemsを飾りまくっている。 女性好みという事か。 今日は、VilcabambaからLoja-Catamayo-Vela Cruz-Macaraを経て、Peruにまた戻った。 Ecuador-Peruの国境は、行きに通過した海岸沿いのHuaquillaとは打って変わって静かな山間の橋を境としている。 のんびりしており、日本のパスポートを珍しそうに見入っていた。 車の持ち込み書類を作成するのに3人の税関職員が集まり、2枚書き方を誤り、3枚目でようやく出来上がり。 3人の顔には達成感さえ漂わせていた。 国境まで200km、ペルーに入ってからは平坦な土地でPiuraまでやはり200km、合計400km。 Equadorの緑からもうすでに砂っぽい風景に変わりつつあり。 Equadorの幹線道路では警察の検問が非常に少ないが、Peruに入ると俄然また多くなる。 宿泊のHotelは、Costa del Sol. 真向かいの中華で昼食を兼ねた夕食。 三品で9ドル。